息子が3人います。
子どもが小さい頃は、当然ですが何をするにも子ども中心でした。
食事もそうです。
出かける場所もそうです。
休日の予定もそうです。
それが少しずつ大きくなり、ようやく3人とも自分のことを自分でできるようになってきました。
「これからは、もう少し旅行にも行けるかな」
そんなことを思っていた頃に始まったのが、コロナ禍でした。
今振り返ると、あそこから私の時間の感覚が少しおかしくなった気がします。
ようやく自由になると思ったところだった
子どもが3人いると、家族で動くのも簡単ではありません。
小さいうちは、親がやることがたくさんあります。
それでも子どもは大きくなります。
少しずつ手がかからなくなり、自分たちでできることが増えていきました。
親としては、うれしいような、少し寂しいような。
それと同時に、
「これからは自分たちの時間も少し増えるかな」
という気持ちもありました。
旅行にも行きたい。
行ったことのない場所にも行きたい。
ところが、ちょうどそんな時期にコロナ禍が始まりました。
出かけること自体が難しくなりました。
予定を立てることさえ難しい時期が続きました。
コロナ禍の数年間だけ、記憶の並び方がおかしい
2018年や2019年の出来事は、それなりに「昔のこと」として思い出せます。
ところが2020年からの数年間は、少し違います。
つい最近のような気もするのに、もうかなり時間がたっています。
何年に何があったのかも、時々分からなくなります。
思い出というのは、
「あそこへ行った」
「こんなことがあった」
という出来事と一緒に残っているのでしょう。
コロナ禍では、その目印が少なかった。
季節は何度も変わっているのに、振り返ると数年間が一つの塊になっているような感覚があります。
私の人生の中でも、あの数年間だけは異次元の時間でした。
終わったと思ったら、今度は息子たちの受験が始まった
そして、ようやくコロナ禍が落ち着いてきました。
「これで少し動けるかな」
と思ったら、今度は息子たちの受験が順番に始まりました。
3人いれば、受験も一度では終わりません。
一人が終われば、次が近づいてくる。
子育てが一段落したら旅行へ。
そう思っていたはずなのに、
コロナ禍があり、
その後には息子たちの受験が続いた。
もちろん、どちらも同じものではありません。
でも、自分の中では、
「そろそろ自由に動けるかな」
と思ったところから、ずいぶん長い時間がたってしまった感覚があります。
気づけば、自分も50代になっていた
時間が止まっていたわけではありません。
むしろ逆です。
普通に進んでいました。
息子たちは大きくなりました。
親も歳を取りました。
そして私自身も50代になりました。
若い頃なら、数年くらい何とも思わなかったかもしれません。
でも50歳を過ぎると、数年の重みが少し変わってきます。
あと何年、元気に出かけられるのか。
あと何回、春や秋に旅行できるのか。
そんなことを考えるようになりました。
だから最近は、
「落ち着いたら行こう」
という言葉を、あまり信用しなくなっています。
行けるときに行っておこうと思う
人生には、自分ではどうにもできない時期があります。
コロナ禍は、まさにそうでした。
子どもの受験だって、その時期になれば家族として優先したい。
だから、予定どおりにいかないこと自体は仕方ありません。
でも、その経験をしたからこそ、
「いつか行こう」
ではなく、
「行けるなら行こう」
と思うようになりました。
城を見に行く。
車で出かける。
写真を撮る。
大げさな旅行でなくても構いません。
子どもたちが大きくなったら、と思っていた頃から、もう何年もたちました。
これから先も、何が起きるかは分かりません。
だったら、動けるときに動いておく。
50代になった今は、そのくらいでちょうどいいのかもしれません。
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