長男が運転免許を取り、
「運転の練習をしたいから、どこかドライブに行こう」
と言いました。
その日は、妻のパートが休みでした。
三男も夏休みで、たまたま予定がない。
次男は試験があり、一緒には行けませんでした。
以前なら、家族5人で出かけることは珍しくありませんでした。
でも今は、誰か一人予定が合わないことの方が多い。
今回は4人。
それでも、久しぶりに家族で少し遠くまで出かけることになりました。
向かったのは、車で1時間半ほどのところにある神社です。
私にとっては、何十回も訪れている場所。
そして、父が毎月のように参拝していた神社でもあります。
父は、毎月ここへ来ていた
私は、この神社に何度も来ています。
子どもたちも、小さい頃に父と何回か来たことがあります。
でも今回、
「ここ、おじいちゃんと来たことあるだろ」
と話しても、ほとんど記憶にありませんでした。
それも当然なのかもしれません。
子どもにとっては、たくさんあった休日の一つだったのでしょう。
でも、私には父の姿が残っています。
毎月のようにここへ来ていたこと。
何度も一緒に参拝したこと。
子どもたちを連れてきたこと。
同じ場所でも、誰の記憶に残っているかで意味が変わります。
子どもたちは忘れていても、私が覚えている
少し不思議な気持ちになりました。
父はもういません。
子どもたちには、父とこの神社に来た記憶もほとんど残っていない。
それでも私は覚えています。
だから、参拝しながら父の話をしました。
「おじいちゃんは毎月ここに来ていたんだよ」
大げさな家族史ではありません。
でも、こういう話は誰かがしなければ少しずつ消えていきます。
どこによく行っていたのか。
何を大切にしていたのか。
どんなことをしていたのか。
そういう小さな記憶を伝える役割が、いつの間にか自分に回ってきたのだと思いました。
今度は、長男が運転している
今回、いちばん時間の流れを感じたのは、長男が運転していたことでした。
少し前までは、私が運転して子どもたちを乗せる側でした。
今は長男がハンドルを握り、私は助手席に座っています。
昔、この神社へ来たときは、父がいた。
私は今よりずっと若かった。
子どもたちはまだ小さかった。
今は父はいない。
長男が運転している。
同じ場所へ向かっていても、家族の立場は少しずつ変わっています。
父の世代から私へ。
そして、私から子どもたちへ。
そんなことを意識していたわけではありませんが、神社へ向かう車の中で、ずいぶん時間が流れたのだと感じました。
家族全員がそろうことは、もう当たり前ではない
今回、次男は試験で来られませんでした。
以前なら、
「また今度、みんなで行けばいい」
と思ったかもしれません。
でも今は、その「みんな」がなかなかそろいません。
大学。
試験。
アルバイト。
友人との予定。
それぞれに自分の生活があります。
それは成長した証拠でもあります。
だから、4人でも一緒に出かけられたことが、少し特別に感じました。
子どもが小さい頃は、家族で出かけることが日常でした。
今は、予定が合った人で出かける。
それでも十分です。
家族の形も、少しずつ変わっていくのでしょう。
父のことを、子どもたちと話せた
今回、一番よかったのは、神社へ行けたことそのものではありませんでした。
父のことを、子どもたちと話せたことです。
子どもたちには記憶がなくても、私にはある。
私が話せば、
「おじいちゃんは、そんなことをしていたんだ」
と知ることができます。
父が残したものは、物だけではありません。
何を大事にしていたのか。
どんな場所に通っていたのか。
どんな時間を過ごしていたのか。
そういうことも、家族の中に残っていくのだと思います。
そして、それを次の世代に渡すのは、今の自分の役目なのかもしれません。
何でもない一日が、あとから残る
帰りには、4人で食事をしました。
特別な旅行をしたわけではありません。
長男が運転の練習をしたかった。
妻が休みだった。
三男に予定がなかった。
次男は試験で来られなかった。
ただ、それだけです。
でも、その偶然が重なって、父が毎月通っていた神社へ行くことができました。
父の話もできました。
長男の運転する車にも乗りました。
何か大きな出来事があった日ではありません。
それでも、こういう一日の方が、あとから残るのかもしれません。
50代になると、家族の時間は前へ進むだけではなく、ときどき昔ともつながる。
父が通っていた神社へ、今度は息子の運転で向かう。
そのことが、少し不思議で、少しうれしい一日でした。
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