先日、息子3人と出かけました。
並んで歩いていると、ふと気づきました。
私が、いちばん小さい。
私の身長は176センチです。
同じ年代では、背が高い方だと思います。
学生時代も、整列すれば後ろから数番目でした。
自分が「小さい側」に入ることは、ほとんどありませんでした。
それが今では、息子3人に囲まれると、私がいちばん小さく見えます。
少しおかしくて、少しうれしくて、時間の流れを感じました。
以前は、私が歩幅を合わせていた
息子たちが小さかった頃、見上げていたのは向こうでした。
手をつないで歩いたこと。
疲れたと言われて、抱き上げたこと。
人混みではぐれないように、何度も後ろを振り返ったこと。
歩幅を合わせるために、こちらがゆっくり歩いていました。
今は違います。
息子たちの方が背も高く、歩くのも速い。
私が少し遅れることもあります。
ついこの前まで小さかったはずなのに、いつの間にか追い越されていました。
父親は、いつまでも大きいわけではない
子どもが幼い頃、父親は大きな存在に見えます。
高いところに手が届く。
重いものを持てる。
困ったときには助けてくれる。
少なくとも、小さかった息子たちには、そう見えていたと思います。
けれど、その大きさはずっと続くわけではありません。
身長は追い越されます。
体力も、知識も、新しいものへの対応力も、少しずつ向こうが上になっていきます。
父親だからといって、いつまでも強く、正しく、先を歩いていられるわけではありません。
それを寂しいと感じる気持ちもあります。
ただ、親が子どもを育てるのは、いつか追い越されるためでもあります。
育てるとは、自分の出番を減らすこと
子どもには、自分で考え、自分で決め、自分の足で歩いてほしい。
親の判断をいつまでも待つ人にはなってほしくありません。
そう考えるなら、子どもが親を追い越していくのは、望んできた結果でもあります。
これは家庭だけの話ではないと思います。
仕事でも、人を育てるほど、自分の出番は減っていきます。
部下が自分で判断する。
指示がなくても動く。
問題が起きても、自分たちで解決する。
上司がいなくても仕事が回るようになる。
そのとき、
「自分は必要とされなくなった」
と受け取ることもできます。
けれど本当は、
「ここまで育った」
と受け取るべきなのでしょう。
人を育てるとは、最後には自分を不要に近づけていくことなのだと思います。
追い越されることは、負けることではない
息子たちは、これから身長以外でも私を追い越していくでしょう。
私より多くのことを知り、私より遠くへ行き、私にはできなかった選択をするかもしれません。
そのたびに、父親として少し寂しくなると思います。
けれど、無理に大きく見せ続ける必要はありません。
追い越されることは、負けることではないからです。
自分より先へ進めるように育ってくれた。
それは、親として喜ぶべきことです。
父親という役割の、その先へ
息子たちが小さかった頃、私の時間の多くは父親としての役割に使われていました。
送り迎えをする。
学校のことを考える。
進路に悩む。
必要なお金を準備する。
もちろん、その役割が終わったわけではありません。
ただ、少しずつ形は変わっています。
息子たちが自分の人生を歩き始めたのなら、私も父親という役割だけにとどまる必要はありません。
これから自分は、何をしたいのか。
どんな仕事を残したいのか。
残りの人生を、どんな歩幅で進みたいのか。
息子たちに囲まれ、私がいちばん小さくなっていた日。
それは、単に身長を追い越された日ではありませんでした。
一つの役割を、少しずつ終えられるところまで来たことに気づいた日でもありました。
まとめ
以前は、私が前を歩き、息子たちがついてきました。
今では、彼らの方が大きく、歩くのも速い。
それでいいのだと思います。
人を育てるとは、追い越されることです。
自分がいなくても歩けるようにすることです。
息子たちが自分の人生を歩いていくなら、私もまた、自分の残りの人生を歩き始めればいい。
3人に囲まれ、いちばん小さくなった自分を見て、そんなことを思いました。
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